自伝的記憶と脳が影響する生きづらさやトラウマを心理学・脳科学から最新の心理療法的見解と解説
記憶と脳ー現代心理学・脳科学から見た記憶の理解
記憶とは、私たちが経験した出来事や学習した情報を脳の中に保持し、必要なときに利用できるようにする仕組みです。認知心理学では、記憶は一般に「符号化(Encoding)」「貯蔵(Storage)」「検索(Retrieval)」の三段階で説明されます。まず知覚された情報が意味のある形に変換され(符号化)、脳内に保持され(貯蔵)、必要に応じて呼び出されます(検索)。
古典的な理論として「多重貯蔵庫モデル」があります。このモデルでは、情報はまず感覚記憶に入り、その中で注意を向けられたものが短期記憶へ送られ、さらにリハーサルや意味づけを通じて長期記憶へ移行すると考えられています。感覚記憶は数秒未満しか保持されず、短期記憶も数十秒程度しか保持できません。一方、長期記憶は事実上無制限の容量を持ち、数年から生涯にわたって保存されます。
長期記憶は大きく「宣言的記憶」と「非宣言的記憶」に分けられます。宣言的記憶は言葉で説明できる記憶であり、「エピソード記憶」と「意味記憶」に分類されます。エピソード記憶は自分が経験した出来事の記憶であり、その中でも人生の重要な出来事を統合したものが「自伝的記憶」です。意味記憶は知識や概念に関する記憶です。これに対して非宣言的記憶は、自転車の乗り方や楽器演奏などの「手続き記憶」を中心とする、身体が覚えている記憶です。
また、現代では短期記憶よりも「ワーキングメモリー(作業記憶)」が重視されています。ワーキングメモリーは記憶を保存する場所ではなく、長期記憶や短期記憶から情報を取り出しながら考えたり判断したりする「心の作業机」と考えられています。
近年の脳科学は、記憶を単なる保存装置としてではなく、脳全体のネットワーク活動として理解しています。特に重要なのが海馬、扁桃体、前頭前野です。海馬は新しい記憶の整理、扁桃体は感情との結びつけ、前頭前野は検索や整理を担っています。
さらに重要な発見は、「記憶は録画映像の再生ではない」ということです。私たちは過去をそのまま思い出しているのではなく、現在の感情や価値観、身体状態、他の記憶などを用いて再構成しています。特に自伝的記憶は人生の物語として組織化されるため、不正確な再現や混同が起こりやすく、場合によっては偽記憶が形成されることもあります。
心理カウンセリングにおいて語られる過去の出来事の多くは、この自伝的記憶に属します。重要なのは、記憶の真偽を判定することではなく、その記憶が現在の自己理解や感情、人間関係にどのような影響を与えているかを理解することです。現代の精神療法では、クライエントの人生物語を丁寧に聴き、出来事・感情・意味づけを整理し、新たな視点から再構成していくことが重視されています。
このように、記憶とは単なる過去の保存庫ではありません。記憶は自己を形づくり、人生の意味を構成する重要な心理機能であり、私たちは記憶を通して自分自身の人生を理解し続けているのです。

自伝的記憶の偏り・再構成・固定化のケース
実際のカウンセリングでは、クライエントは「記憶について相談に来る」のではなく、
- うつ
- 不安
- PTSD
- 愛着問題
- 自己否定
- 夫婦問題
- 職場問題
として来談します。
しかし深く話を聴いていくと、その根底には、「自伝的記憶の偏り・再構成・固定化」が存在していることが少なくありません。
以下に臨床でよく見られるケースを挙げてみます。
40代女性
「母は私を愛してくれませんでした。子どもの頃からずっとそうでした。」
詳しく聞くと
- 母と遊んだ記憶もある
- 運動会も来ている
- 看病もしてもらっている
しかし現在の孤独感が強いため
記憶全体が「愛されなかった人生」へ再構成されている。
臨床ポイント
事実確認ではなく、「愛された経験」「愛されなかった経験」の両方を丁寧に探索する。
50代男性
「学校では毎日いじめられていました。」
詳細に聞くと
- いじめは確かにあった
- しかし親友もいた
- 楽しい部活動もあった
ところが現在の抑うつ状態により
人生全体が「苦痛の物語」へ統合されている。
臨床ポイント
現在の気分状態が
過去の検索に影響している可能性。
30代女性
「あの時のタイヤの音が忘れられません。」
思い出すのは
- 音
- 匂い
- 恐怖
だけ。事故全体の流れは曖昧。
特徴
これは記憶が失われたのではなく、断片化されている。
音
↓
恐怖
↓
身体反応
が強く保存されている。
臨床ポイント
事実確認より、身体反応の調整が優先。
60代男性
“父との葛藤”
「父には良いところなど一つもありません。」
しかし話を聞くと
- 学費を出してくれた
- 病院へ連れて行った
- 旅行にも行った
なども出てくる。
起きていること
現在の怒りが強いため
記憶検索が、父の悪い面だけに偏っている。
臨床ポイント
善悪の二分法を緩める。
DV被害女性
「私がもっと頑張ればよかった。」
実際には
- 暴言
- 威嚇
- 経済支配
が存在する。
しかし加害者から長期間「お前が悪い」と言われ続けた。
結果
自伝的記憶が、加害者の解釈で再編集されている。
臨床ポイント
出来事と解釈を分ける。
40代女性
“小さい頃に何かあった気がする。”
しかし
- 場面は曖昧
- 年齢不明
- 人物不明
である。
注意点
ここで「きっと虐待されていたのですね」と誘導すると危険。
臨床ポイント
事実認定を急がない。
扱うべきは、現在の苦しみ・現在の恐怖・現在の身体反応である。
家族関係の相談
「母は私を一度も抱きしめてくれませんでした。」
その後、アルバムを見ると多数の抱擁写真がある。
起きていること
事実の記憶ではなく、愛された感覚がなかったという情緒記憶が語られている。
臨床ポイント
事実を否定しない。
同時に感情の真実も否定しない。
70代女性
「夫は40年間一度も私を理解してくれなかった。」
しかし丁寧に聞くと
- 助けてもらった場面
- 一緒に笑った場面
も存在する。
起きていること
現在の傷つきが大きいため、検索される記憶が理解されなかった記憶へ集中している。
臨床ポイント
否定ではなく、人生全体の物語を再構成する。
愛着外傷
30代男性
「子どもの頃からダメな人間でした。」
ところが詳しく聞くと
- 成績は良い
- 友人もいる
- 部活動でも評価された
それでも、失敗体験だけが強く想起される。
起きていること
自伝的記憶が、私は価値がないというスキーマに従って検索されている。
心理カウンセリングで出会う多くの問題は、実は「何が起きたか」だけではなく、
「その人が人生の出来事をどのような物語として記憶しているか」の問題でもあります。
そして臨床家が扱うのは、必ずしも事実そのものではなく、
事実
↓
解釈
↓
感情
↓
自己像
↓
人生物語(自伝的記憶)
という流れです。
その意味で、カウンセリングとは単に過去を思い出す作業ではなく、
「自伝的記憶の再編集(Narrative Reconstruction)」
を通して、より柔軟で現実的な人生物語を再構築していく営みである、と考えることができます。

自伝的記憶への精神療法
自伝的記憶の問題は、現代の心理療法の中核に位置しています。なぜなら、うつ病、PTSD、複雑性PTSD、愛着障害、パーソナリティの問題、夫婦問題など、多くの苦痛の背景には、「出来事そのもの」よりも「その出来事がどのような自伝的記憶として組織化されているか」が存在するからです。
ただし重要なのは、「記憶の真偽を追及すること」ではなく、「その記憶が現在どのような意味を持ち、どのような影響を与えているかを理解し再構成すること」です。
自伝的記憶への精神療法
全体像は次の8段階で理解すると分かりやすいと思います。
- 安全基地の形成
- 人生物語の聴取
- 記憶の構造化
- 感情との再接続
- 意味づけの検討
- 物語の再構成
- 現在の自己との統合
- 未来物語の形成
愛着理論でいう「安全基地」です。
クライエントは、この話をしたら否定される、信じてもらえない、責められる
という恐れを持っています。
まず必要なのは、記憶内容の検証ではなく安心して語れる関係です。
「そのように体験されたのですね」
ナラティヴ・アプローチです。まず人生全体を語ってもらいます。
聴取内容
幼少期・学校・家族・恋愛・仕事・転機・喪失・成功・失敗
目的
問題を聞くのではなく
人生を聞く。
ここで、出来事、感情、意味づけを分離します。
例えば、クライエント:「母は私を愛していませんでした」
ここで分解します。
- 出来事
- 母が仕事で不在だった
- 感情
- 寂しかった
- 意味づけ
- 私は愛されていない
多くの場合、これらが混ざっています。
ここで初めて感情を扱います。
重要なのは、出来事より感情です。
例えば、悲しかった、怖かった、寂しかった、恥ずかしかったなどです。
トラウマでは、感情が切断されていることがあります。
PTSD
語れる→感じられない
あるいは
感じる→語れない
この分断をつなぎ直します。
ここが認知療法に近い部分です。
例えば、父に怒鳴られた→私は価値がないという意味づけがあります。
ここで問います。
本当にそうなのか、他の見方はないか
重要なのは、意味づけを否定しないこと。
ここが核心です。
ナラティヴ・セラピーやトラウマ療法の中心です。
例えば、旧物語:私は捨てられた子どもだった
再構成後:私は孤独だった、しかし必死に生き抜いた
事実を変えるのではありません。意味を変えるのです。
過去を過去として位置づけます。
多くのクライエントは、過去の私=今の私になっています。
統合後:あれは過去の出来事、しかし私は今ここにいるとなります。
これは、PTSD治療でいう時間的再定位にも近いものです。
自伝的記憶は、過去だけではありません。
人は、未来の物語も持っています。
例えば、治療前:苦しい経験はあった。それでも人生は続く。
未来の物語を書き換えます。
- 何が起きましたか
- (出来事)
- その時どう感じましたか
- (感情)
- その体験から何を学びましたか
- (意味づけ)
- その学びは今も正しいですか
- (再評価)
- これからどんな人生物語を書きたいですか
- (未来物語)
現代心理療法の共通理解
興味深いことに、
- 認知行動療法(CBT)
- スキーマ療法
- EMDR
- STAIR
- ナラティヴセラピー
- 内的家族システム療法(IFS)
- AEDP
- 愛着理論的心理療法
は理論は異なりますが、最終的には皆、「自伝的記憶の再統合」を目指しています。
つまり精神療法とは、単に症状を減らす作業ではなく、
「私はどのような人生を生きてきたのか」
「私はどのような人間なのか」
「これからどのように生きるのか」
という人生の物語を再編集していく作業なのです。
心理カウンセリングの土台
私たちは長い間、記憶とは過去を保存した記録であると考えてきました。
しかし現代の認知心理学や脳科学は、記憶とは過去の保存ではなく、現在の自分が過去を意味づける過程であるという理解へと進んでいます。
特にカウンセリングの現場では、クライエントが語る過去は単なる出来事の報告ではありません。
そこには、
- その時に感じた感情
- その出来事に与えた意味
- 自分自身についての信念
- 他者との関係性
- 人生全体の物語
が織り込まれています。
つまりクライエントが語るのは、「何があったか」だけではなく、
「その出来事によって私はどのような人間になったと思っているか」なのです。
その意味で、自伝的記憶は単なる記憶ではなく、自己そのものと言っても過言ではありません。
そして興味深いことに、自伝的記憶は最も重要な記憶である一方で、最も不正確になりやすい記憶でもあります。
私たちは過去を録画映像のように保存しているのではなく、
- 現在の感情
- 現在の身体状態
- 現在の価値観
- 他の出来事の記憶
- 想像や推測
を用いて、毎回少しずつ再構成しながら思い出しています。
そのため、「私は愛されなかった」という語りの中には、事実として愛されなかった部分もあれば、愛された経験が見えなくなっている部分もあり、さらには現在の孤独感や悲しみが反映されている場合もあります。
これは嘘ではありません。しかし完全な事実でもありません。
そこには、「事実の真実」と「感情の真実」の両方が存在しているのです。
だからこそ現代の精神療法は、記憶の真偽を裁くことよりも、その記憶が現在の人生にどのような影響を与えているのかを理解しようとします。
そして、「私は価値のない人間だ」という人生物語を、「私は苦しい経験をしたが、その中を生き抜いてきた人間だ」という、より現実的で柔軟な物語へ再構成していきます。
本日の内容は、トラウマ、愛着、うつ病、夫婦問題、犯罪被害支援、カサンドラ症候群など、Plu多くの事例を理解するための共通基盤になる知識だと思います。
心理療法とは症状を消す技術だけではありません。
それは、人生の物語を再び語り直す営みでもあります。
そしてその営みを支えているのが、今日学ぶ「記憶」の理解です。
記憶の理論と知識
現在の認知心理学や神経科学でも、記憶は基本的に
①符号化(Encoding)
→ 入力された情報を脳が処理可能な形に変換する
②貯蔵(Storage)
→ 情報を一定期間保持する
③検索(Retrieval)
→ 必要な時に情報を取り出す
という三段階で説明されます。
ただし近年では、「脳のどこかに保存された記録を取り出す」というより、
『記憶とは脳全体の神経ネットワークが再構成される現象である』という理解へ発展しています。
記憶の古典的理論
多重貯蔵庫モデルとは
1968年にRichard AtkinsonとRichard Shiffrinによって提唱されました。
人間の記憶は3つの貯蔵庫からなると考えます。
感覚記憶➡短期記憶➡長期記憶
① 感覚記憶(Sensory Memory)
外界から入った情報を一瞬だけ保持するシステムです。
例えば
- 花を見る
- 犬の鳴き声を聞く
- コーヒーの香りを感じる
これらはまず感覚記憶に入ります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 容量 | 非常に大きい |
| 保持時間 | 0.2〜3秒程度 |
| 意識 | ほぼ無意識 |
② 短期記憶(Short-Term Memory)
注意を向けた情報だけが短期記憶へ送られます。
例えば、電話番号090-1234-5678を聞いた直後です。
数十秒だけ保持できます。
- ミラーの法則
-
1956年George A. Millerは、短期記憶容量は7±2チャンクであると報告しました。
7±2:例えば、582719は6個の情報ですが、1985 2026なら2チャンクになります。
- 最新知見
-
現在では、4±1チャンク程度という説が有力です。
短期記憶は思ったより小さいのです。
③ 作業記憶(Working Memory)
現在では、単なる短期記憶よりも作業記憶(ワーキングメモリー)の概念が重視されています。
提唱者は、Alan Baddeleyです。
④ 長期記憶(Long-Term Memory)
短期記憶の一部が長期保存されます。容量は事実上無限と考えられています。
保持期間は数日、数年、一生に及びます。
長期記憶の分類
宣言記憶(Explicit Memory):言葉で説明できる記憶
非宣言記憶(Implicit Memory)
身体が覚える記憶
- 手続き記憶
-
例
- 自転車
- ピアノ
- 車の運転
です。
最新の脳科学から見た修正点
多重貯蔵庫モデルは教育的には非常に分かりやすいのですが、現在では完全な説明ではないと考えられています。
理由は、脳の中に「感覚記憶の引き出し」「短期記憶の引き出し」「長期記憶の引き出し」があるわけではないからです。
現代の理解
記憶は、海馬・前頭前野・扁桃体・側頭葉・頭頂葉・小脳など複数の領域が協働して形成されます。
記憶固定(Consolidation)
最新研究で最も重要な概念です。
経験した直後の記憶は不安定です。
海馬が一時保存し、数日〜数年かけて大脳皮質へ再編成されます。
睡眠中にこの作業が進みます。
さらに最新の理解では、記憶は再生ではなく再構築
昔は保存、取り出しと考えられていました。
現在は
保存
↓
再構築
↓
思い出す
つまり、記憶は毎回少しずつ作り直されます。
臨床家として特に重要な視点
カウンセリングやトラウマ臨床では、「記憶は録画映像ではない」という理解が極めて重要です。
人は過去をそのまま再生しているのではなく、現在の感情、現在の信念、現在の身体状態の影響を受けながら再構成しています。
そのため、
- トラウマ記憶
- 愛着記憶
- 夫婦間の出来事の記憶
- 犯罪被害の記憶
は、事実そのものと主観的体験とが複雑に絡み合います。
これは「記憶が嘘である」という意味ではなく、記憶とは本質的に『意味づけを伴った再構成』であるということです。

記憶システム全体像
まず記憶全体を一枚で表すと、
感覚記憶
↓
短期記憶
↓(リハーサル・意味づけ)
長期記憶
↑
検索(想起)
↑
ワーキングメモリー
ワーキングメモリーは独立した記憶庫ではなく、長期記憶や短期記憶から情報を呼び出して
「今ここで考える」ための作業台です。
臨床的に最も重要な理解
現在の認知神経科学では、記憶は単なる「保存」ではなく自己を形成するシステムと考えられています。
特に心理臨床では、
自伝的記憶
↓
自己概念
↓
感情
↓
対人関係
が密接につながっています。
例えば、「私は価値がない」という信念は、単なる考えではなく、
幼少期からの自伝的記憶の積み重ねによって形成されています。
その意味でカウンセリングとは、単に感情を聴く作業ではなく、
その人の自伝的記憶を再整理し、新しい意味づけを行う作業
とも言えます。

記憶の再構成で偽記憶へと変化する
心理カウンセリングのテーマにもなりますが、クライエントの中には過去に経験した出来事について語る人がほとんどです。クライエントが精神的な問題を抱えていると、語られる過去の出来事は単なるエピソードではなく、ネガティブな感情を伴い自分の人生にとって改善・解決が必要であると思われるような事柄、つまりは自伝的記憶である可能性が高くなります。しかし、自伝的記憶は個人にとって最も重要な部類の記憶であるにも関わらず、混同や不正確な再現などが生起しやすいものであることも判明しています。これは自伝的な記憶を思い出そうとした段階で他の出来事に関する記憶やイメージなどと一緒に再構成されてしまうからであるとされています。従って、そもそも経験していない出来事をあたかも本当に経験したかのように感じ、偽りの記憶が作り出されることもあります。 特にPTSDなどのトラウマや幼少期の体験などとなると厄介なものとなります。
「記憶は保存された録画ではなく、現在の心身状態・感情・意味づけによって再構成されるもの」という点を最新の記憶研究と、カウンセリングでの扱い方を分けて整理します。まず、用語の土台と現在の研究上の注意点を確認します。
まず、忘却には大きく2種類あります。
利用可能性の問題は、記憶痕跡そのものが弱まり、情報として使えなくなる状態です。いわば「本が失われた」状態です。
アクセス可能性の問題は、記憶は残っているが、検索手がかりが弱く、取り出せない状態です。いわば「本はあるが、棚の場所がわからない」状態です。記憶研究では、availability は記憶痕跡が保存されているか、accessibility はその時点で取り出しやすいかを区別します。
自伝的記憶は、単なる「昔の出来事」ではありません。
それは、私はどのような人生を生きてきたのか
私はどのような人間なのか
なぜ今の私はこう感じるのか
という自己理解と結びついた記憶です。
そのため、カウンセリングで語られる過去は、単なるエピソード記憶ではなく、本人の自己像・対人関係・感情反応を支えている自伝的記憶であることが多いです。自伝的記憶は、過去経験を人生全体の物語へ統合するシステムと説明されています。
自伝的記憶は「再生」ではなく「再構成」です。
思い出す時、脳は過去の映像をそのまま再生しているのではなく、現在の感情、身体感覚、信念、他者から聞いた話、写真、夢、想像、類似した別の出来事を組み合わせて、「もっともそれらしい物語」として再構成します。自伝的記憶の想起は、個人的過去の複数の詳細を結び合わせて心的表象を構成する過程とされています。
したがって、本人に悪意がなくても、
実際に起きたこと
そう感じたこと
後から意味づけたこと
他の記憶と混ざったこと
想像したこと
が一つの「私の記憶」として体験されることがあります。
偽記憶とは、本人が「本当にあった」と感じているが、実際には経験していない、または大きく変形された記憶です。
重要なのは、偽記憶は「嘘」ではないということです。本人の主観的確信は非常に強く、感情も身体反応も伴います。研究上も、自伝的経験について偽記憶が形成され得ることは示されており、記憶は暗示や誘導、反復想像、権威者からの確認などの影響を受けます。
臨床上危険なのは、支援者が、
「それは虐待だったはずです」
「思い出せないのは抑圧しているからです」
「もっと深く掘れば真実が出てきます」
というように、特定の結論へ誘導してしまうことです。
幼少期虐待の記憶について、忘れていた出来事を後に思い出すこともあり得る一方、暗示によって不正確な記憶が生じる可能性もあるため、慎重な扱いが必要だと説明しています。
PTSDでは、記憶が通常の自伝的記憶として整理されず、断片的・侵入的に現れることがあります。
例例えば、
音
匂い
身体感覚
表情
場所の一部
恐怖感
無力感
だけが突然よみがえることがあります。
これは「過去の出来事を思い出している」というより、身体と情動が“今また起きている”ように反応する状態です。PTSDではトラウマ記憶が他の自伝的記憶と切り離されたように体験されるかどうかが研究されており、侵入記憶や断片化は重要な論点です。
ただし、ここでも注意が必要です。
「断片的だから本物」
「思い出せないから重大な虐待があった」
「身体反応があるから事実である」
とは断定できません。
身体反応は、事実の証明ではなく、本人の神経系が脅威として処理していることの証拠です。
幼少期の記憶は、以下の理由で不安定です。
幼児期は言語能力が未成熟です。時間系列、因果関係、人物関係の整理も未成熟です。そのため、記憶は感覚・感情・断片として残りやすくなります。
さらに、成長後に親・きょうだい・写真・家族の語り・治療場面での意味づけが加わります。
その結果、
当時の体験と
後から作られた物語が
混ざりやすくなります。
臨床では、記憶の真偽判定者にならないことが重要です。
安全な姿勢は、
「それが事実かどうかを今ここで断定する」のではなく、
「その記憶が現在の苦痛・自己理解・対人反応にどのような影響を与えているか」を扱う
ことです。
つまり、「本当にありましたね」
でもなく、「それは思い込みです」
でもなく、「そのように思い出される体験が、今のあなたにどのような苦痛をもたらしているのかを一緒に見ていきましょう」
という姿勢です。
避けるべき問いは、
「本当は虐待されたのでは?」
「誰にされたのですか?」
「もっと思い出してください」
「その場面を詳しく再現してください」
です。
望ましい問いは、
「今、その記憶を思い出すと身体はどう反応しますか」
「その出来事は、今の自己理解にどんな影響を与えていますか」
「確かに覚えている部分と、推測している部分を分けるとどうなりますか」
「その記憶が語っている“意味”は何でしょうか」
です。
自伝的記憶は、人生の核にある記憶です。だからこそ力があります。
しかし同時に、自伝的記憶は録画ではなく、現在の感情・信念・身体状態・他の記憶と結びついて再構成されます。
心理カウンセリングで大切なのは、
記憶を事実認定の材料として急いで扱うことではなく、
その記憶が現在の苦痛・自己像・対人関係にどう作用しているかを丁寧に扱うことです。

心理療法で重要な未来記憶(展望記憶)
心理療法で重要な未来記憶(展望記憶)は、現代の記憶研究の中でも非常に興味深く、そして心理カウンセリングにとって極めて重要なテーマです。
かつて記憶研究は、過去をどのように記憶しているか。を中心に研究していました。
しかし2000年代以降の脳科学は、「記憶の本来の目的は過去を保存することではなく、未来を予測し準備することではないか」という方向へ発展しています。
進化論的に考えると、人間が過去を覚えている理由は、単に懐かしむためではありません。
例えば、あの犬に噛まれたという記憶は、未来に同じ危険を避けるために存在します。
つまり、
過去の記憶
↓
未来の予測
↓
行動の選択
です。
現代の神経科学では、記憶の重要な役割は未来シミュレーションにあると考えられています。
まず最も狭い意味で未来記憶とは、「将来行うべきことを覚えておく能力」です。
例えば、
- 明日病院へ行く
- 薬を飲む
- 友人に電話する
などです。
これは展望記憶(Prospective Memory)とも呼ばれます。
臨床では、もっと広い意味があります。
未来の自伝的記憶
実は脳は、未来を考える時も、過去の自伝的記憶を利用しています。
例えば、1年後の私はどうなっているだろうと考える時、脳は未来を見ているのではありません。
脳は
過去の経験
↓
現在の自己像
↓
未来予測
を行っています。
これを、エピソディック未来思考(Episodic Future Thinking)と呼びます。
驚くべき発見
脳画像研究では、未来を想像する時と過去を思い出す時にほぼ同じ脳領域が活動します。
特に
- 海馬
- 内側前頭前野
- 後帯状皮質
などです。
つまり、過去を思い出す脳=未来を想像する脳なのです。
うつ病のクライエントは、未来に希望が持てないと言います。
これは単なる気分ではありません。
実際に未来シミュレーション能力が低下していることが分かっています。
頭の中では
失敗
失敗
失敗
失敗
という自伝的記憶が検索されます。
すると未来もどうせ失敗するになります。
PTSDの場合、さらに顕著です。
PTSDでは、未来を想像するときもまた危険が起きるという予測が優位になります。
そのため安心な未来が描けなくなります。
愛着障害の場合、愛着外傷を抱える人は未来の人間関係について、どうせ捨てられるを予測します。
これは未来の問題ではなく、過去の自伝的記憶が未来へ投影されているのです。
実は良いカウンセリングは、過去だけを扱っているわけではありません。
本当は
過去の記憶
↓
現在の自己
↓
未来の物語
を同時に扱っています。
ナラティヴ・セラピーの視点
ナラティヴ療法では
問題は過去だけではなく、未来物語にも存在します。
例えば、問題物語
私は価値がない
↓
だから未来も変わらない
希望物語
私は苦しかった
↓
それでも生きてきた
↓
これからも可能性がある
①一年後
問題が少し解決したとしたらどんな生活になっていますか。
②五年後
理想的な人生を送っているとしたら、何が変わっていますか。
③亡くなる直前
どんな人生だったと思いたいですか。
④未来の自分
10年後のあなたは、今のあなたに何と言いますか。
⑤まだ起きていない良い記憶
将来思い出したい出来事は何ですか。
昔
心理療法=過去の治療でした。
現在
心理療法=未来生成の支援という理解が広がっています。
私が最も重要だと思うこと
実は「過去の自伝的記憶を整理する作業」であると同時に、
「未来の自伝的記憶を創造する作業」が重要です。
人は過去の記憶だけで生きているのではありません。
人は、「これからどんな人生を生きるのかという未来の物語」によっても生きています。
そして心理療法の最終段階とは、苦しい過去を消すことではなく、
その過去を含めながらも「これから先にまだ人生がある」と感じられる未来の記憶を心の中に育てていくことなのだと思います。
記憶研究の最前線では、記憶とは過去を保存する機能ではなく、未来を創造する機能である
という考え方が、ますます重要になってきています。これは「回復後の人生」「再出発」「希望の再構築」を、脳科学の言葉で説明したものと言えるでしょう。
実は、心理学や精神医学の歴史を振り返ると、フロイト以降の長い時代は「過去」が中心でした。
なぜ現在苦しいのか。その原因はどこにあるのか。幼少期に何があったのか。愛着形成はどうだったのか。トラウマはあったのか。
こうした問いが心理療法の中心でした。もちろん、これは今でも重要です。
しかし近年は少しずつ視点が変わっています。
例えば、
認知行動療法(CBT)
解決志向アプローチ(SFBT)
アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)
ポジティブ心理学
リカバリー志向の精神医療
などでは、「なぜそうなったのか」よりも「これからどう生きるのか」に重心が移っています。
クライエントに対して
- 今何が起きているのか
- 今何を感じているのか
- これからどうしたいのか
これは脳科学の言葉で言えば、「未来シミュレーション能力の回復支援」とも言えるのです。
興味深いことに、重いうつ状態の人ほど未来を具体的に想像できません。
PTSDの人ほど、未来に危険を予測します。
愛着外傷のある人ほど、未来の人間関係に見捨てられ感を投影します。
つまり、苦しみとは過去の問題であると同時に、未来が閉ざされてしまった状態でもあるのです。
その意味で、これからどう生きたいですか。という問いは、単なる希望探しではありません。
脳科学的には、未来の自伝的記憶を再構築する作業なのです。
この先どんな人生を送りたいですか。本当に大切にしたい価値は何ですか。
と問いかけることには大きな意味を感じます。
なぜなら、価値観とは未来記憶の設計図だからです。
過去の記憶は、「何があったか」を教えてくれます。
現在の価値観は、「何を大切にしたいか」を教えてくれます。
未来記憶は、「どこへ向かいたいか」を教えてくれます。
私は今回のテーマを一言で表すなら、人は過去の記憶によって苦しむことがある。しかし人は未来の記憶によって回復することもできる。だと思います。
苦しい自伝的記憶を整理することは大切です。
しかし、それと同じくらい、まだ起きていない未来を心の中に描けるようになることが回復の指標なのだと思います。
そして「今」と「価値観」は、まさにその未来を生み出す土台です。

