フランクル著書の比喩的文面の解説
『Theorie und Therapie der Neurosen 』より
このように考えることは、ある岩が姿を現して目に見えるようになることが引き潮の原因だとしてしまうのと同じことです。実際には引き潮の時にこの岩が水面に現われてくるだけのことなのです。これと同じように、何らかの劣等感や葛藤、問題やトラウマもそれ自体が病気の原因なのではありません。不安と憂慮に駆られているので、このようなことを絶えず考えてしまうのです。
解説
フランクルが「引き潮と岩」という比喩で伝えようとしているのは、人の心の苦しみや不安は、必ずしも過去の出来事そのものが原因ではなく、むしろ今、私たちが人生に対してどのような意味を見出しているかによって左右されるということです。過去の出来事が確かに心に傷を残していても、そのことが「問題」として浮かび上がるのは、「意味」や目的を見つけられない今の状況にあるからだとフランクルは考えます。
たとえば、引き潮で見えてくる「岩」は、過去のトラウマや劣等感の象徴です。しかし、フランクルによれば、その岩があるから引き潮になるわけではないのです。岩が存在するのは確かでも、それが「問題」として現れるのは、あくまで今の自分の精神状態や人生に対する見方、充実感の不足が背景にあるのです。フランクルは、過去に固執してしまうのは、今現在に生きるための「意味」を見失っているからだと指摘します。
ここで、満潮が訪れたときには岩が見えなくなるように、「今」に「意味」や目的を見出し、人生に肯定的な意義を感じていると、過去の傷も少しずつ心から遠ざかり、目の前の生活に集中できるようになる、という理解になります。つまり、過去の出来事は完全に消えるわけではないものの、それが現在の人生の中で意味を脅かすものではなくなるのです。
さらに、フランクルは「自分自身も大切にする」という考えも重要視しています。誰かのために生きることも大切ですが、自分自身に対しても価値を見出し、自分を含めて人生の意味を作り出すことで、過去に負けない充実感や生きがいを感じられるとしています。この点では、「他者や大きな目標のために生きる」と同時に「自分自身も生きる価値がある」と認めることで、人生の「意味」をより強固なものにできるのです。
フランクルのメッセージは、「過去は変えられないが、今の意味づけ次第で過去の見え方も変わる」というものであり、充実した人生観が過去の苦しみを軽減する大きな要因になるのだと示しています。
『夜と霧』より
生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味も失った人は痛ましい限りだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっという間に崩れていった。
ここで必要なのは、人生の意味に対する問いかけ全体を方向展開させることです。私たちが自分で学び、さらに絶望している人達にも教えなければならないのは、私たちが人生から何を期待できるのか、と言うのが重要なのでは決してなく、むしろ、人生が私たちから何を期待しているかが重要だということなのです。つまり、人生の意味を安易に問うのはもうやめて、自分自身が人生から常に問われているのだと自覚しよう、ということです。 何の目標も持たず、何の生活内容も持たない人は、哀れである。彼の存在の意味は、彼から消え失せてしまうのである。このように全く拠り処を失った人々はやがて崩れていくのである。 あらゆる励ましに反対し、あらゆる慰めを拒絶する彼らの典型的な言い方は、次のようであった。 私はもはや人生から期待すべき何ものも持っていない。 これに対して、人はいかに答えるべきであろうか。ここで必要なのは、人生の意味を問う、その問いの観点の変更なのである。すなわち「我々は人生から何を期待できるか」ということが問題なのではなく、むしろ「人生が我々に何を期待しているのか」ということが問題なのである。 我々が学ぶべきことはこのことであり、絶望している人に教えるべきことはこのことなのである。哲学的に言えば、「コペルニクス的転回」が必要なのである。 およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。すなわち、我々が人生の意味を問うのではない。我々自信が問われているものとして答えなければならない。 この人生には、将来あなたを待っている何かがあり、誰かがいる。誰かがあなたを待っていて、何かがあなたを待っている。
解説
フランクルの「コペルニクス的転回」は、人生へのアプローチを「自分が人生から何を期待するか」から「人生が自分に何を期待しているか」へと根本的に変えることです。これは、自己中心的な視点を捨て、自分の存在を大きな全体の中でとらえることで、人生の意味を再発見する考え方です。
16世紀のコペルニクスが提唱した「地動説」は、天体の中心が地球ではなく太陽であるとする大転換でした。同様に、フランクルは、人生において「私」という存在が中心ではないと理解することで、私たちが果たすべき役割や責任、そして「意味」を発見できると主張します。フランクルが言う「人生の問いかけに応じること」は、まさにこの転回を実現することに他なりません。
具体的に言えば、フランクルの「コペルニクス的転回」とは、「自分に何ができるか」「自分が何を求められているか」を常に問い続ける態度です。この姿勢を通じて、自己の苦しみさえも意味を持たせることができます。たとえば、何も期待できないように見える状況でさえ、「今、この瞬間に自分ができること」や「待っている人や役割」があると気づくことで、過去の傷や虚しさから解放され、自己を超えた意味が見えてくるのです。
「この人生には、将来あなたを待っている何かがあり、誰かがいる」 というフランクルの言葉も、この視点を示しています。自分が待ち望むものではなく、自分が応じるべき「何か」「誰か」があるということです。
つまり、「意味」を人生から受け取るのではなく、人生が投げかける問いに自分が応えるという能動的な姿勢を持つことが重要であり、それがフランクルがいう「生きることへの意味」を見出すカギとなります。
『Der Wille zum Sinn』より
砂時計の上の部分には、まだこれからの未来があります。それは、これから起こることです。そこには砂時計の狭い部分をすり抜けて下へ流れ落ちる砂が入っています。砂時計の下の部分には、すでに起きた過去があります。そして、この狭い部分は現在を示しています。下に落ちた砂粒はそこで固定されます。それはあたかも砂時計の下の部分に凝固剤のようなものが入っているかのようです。あるいは保存添加物が入っているかのようだと言った方がより適切かもしれません。というのも過去の中では過ぎ去ったものは、本当に保存されるからです。これは大切にとっておかれる。長期にわたって貯蔵される。という意味なのです。
解説
フランクルの考え方を砂時計で表現することで、「過去・現在・未来」という時間の流れと、それに対する人の態度や行動が、人生の意味や価値をどのように形成していくかをわかりやすく説明しています。
フランクルの砂時計の比喩における「上の部分」は、まだ形を成していない「未来」を象徴しています。この未来の砂粒は、私たちが経験することになる出来事や運命の一つ一つであり、それがどのような色や重みを持っているかは、現在の時点ではまだ分かりません。私たちはこれらの出来事を、砂時計の中心の「狭いくびれ部分」である「現在」を通して、過去へと変えていきます。この「現在」という狭い通路は、その人が持つ環境や特性、状況によって異なり、各人の「人生の条件」や「選択」が強く影響を与えます。
この「現在」は私たちが意識的に行動し、選択する瞬間であり、「精神の自由」の場でもあります。砂粒が狭い部分を通り過ぎる一瞬にどのような判断や態度を持つかによって、その一粒一粒が過去として積み重なる「下の部分」に保存される形も変わります。
そして、砂が過去に落ちると、それはもう変えられない固定されたものとなります。過去には「凝固剤」や「保存添加物」が加わっているように、私たちの選択や経験の痕跡がしっかりと「保存」され、長く心の中に残っていきます。これがフランクルの言う「過去の保存」という考えです。しかし、現在の選択が異なれば、過去の出来事やその重みは変わる可能性もあります。つまり、過去の砂の色が暗かったとしても、「今」という瞬間を通じてそれを輝かしい色の砂で埋め尽くすことができるのです。ここで重要なのは、過去にどんな経験があったとしても、「現在の態度や行動によって過去の意味も再構成できる」というフランクルの考えです。
また、色がついた砂粒、つまり「トラウマ」となる過去の出来事もありますが、それも現在の瞬間の積み重ねによって、「精神の自由」を活用し、過去を癒し、新たな意味で満たすことができるとフランクルは説いています。
その人は、収穫が終わりに近づいている畑だけを見ているのです。 それも恐怖の思いで。 過去という穀物でいっぱいに詰まった穀物納屋を見ようとはせずに、 できるなら時間が静止して、すべてのものがなくなってしまわないようにと願っているのです。 けれどもこれは刈り取り機を作動させたまま止めたい、 この機械が前進せずにいてほしいと望むようなものです。 というのも、この刈り取り機が畑の上を移動していくと、 いつも刈り取られた部分がどんどん広がっていく光景しか見られないからなのです。 そして機械の中でどんどん増えていく穀物の量のほうは見ようとしないのです。
解説
フランクルは、人は歳を重ねると未来に残された「砂」(時間)が少なくなっていくことを痛感し、時にその事実に悲観的になってしまうと指摘しています。砂時計の上部の砂が減ることに注目してしまうと、「もう時間がない」「私はもう駄目だ」といった思いに囚われやすくなります。しかし、フランクルはそうした考えに対して「まだ人生には豊かなものがある」という視点を持つことを提案しています。
彼の比喩にある「穀物納屋」は、過去の経験や達成したことが詰まった場所です。たとえ現在の自分に時間が限られていても、過去に積み重ねてきた「収穫物」に目を向けることで、その人の人生の価値を再確認し、希望を見出すことができます。この納屋には、喜びや達成感、苦難を乗り越えて得た自信や誇りが詰まっているのです。たとえば、成功や幸福だけでなく、困難に直面した時にそれを克服したこと、他者と分かち合った温かな瞬間、そしてどんな小さな出来事でも、何かを学んだ経験など、人生のあらゆる側面がこの「穀物納屋」に収められています。
また、フランクルは、このような人生の棚卸しをすることが特に高齢者にとって力になると述べています。たとえ「刈り取るもの(未来の新しい経験やチャンス)」が少なくなっても、今までに収穫してきたものを見つめ直し、それを自らの価値や意味と捉えることで、再び生きる力が湧いてくるのです。つまり、砂時計の「下に積み重なった砂」は消え去るものではなく、今もその人の一部として存在し続けます。それに目を向けることが、精神的な充実感や自信をもたらし、残された人生に豊かな意味を見出す助けになります。
「納屋の収穫物を取り出して見てみる」という視点は、フランクルの死生観の中心にある考え方です。人生の終わりに近づくほど、これまでに得たものを「心の整理」というメンタル作業で振り返ることが、その人に新たな力を与えます。この内なる収穫物に気付き、大切にすることで、高齢者は「もう時間がない」という感覚を「まだ豊かなものを抱えている」という安心感に変えることができるのです。
砂時計の砂が全部下に流れ落ちてしまったらどうなるのでしょう? もし時間がすべて流れ去ってなくなってしまったらどうなるでしょう? これが死ということなのです。 死の中ではすべてのものが不動になります。 私たち人間はそこではもう何も動かすことができません。 生きている人間には過去と未来とがあります。 死にゆく人には未来はもうありませんが、その代わりに過去だけがあります。 亡くなってしまった人には自分が過去としてあるのです。 人間は 死ぬことで初めて 世界の中に生み出されるのです。 そして自分自身は 死ぬその瞬間に初めてでき上がるのです。 私たちは一般的に、自分の人生を奪い去る死を 自分の身に起こる最も恐ろしいことだと思い込んでいます。 そして私たちを眠りから覚ましてくれるこの優しい手が、 たとえどんなに優しく触れたとしても、 私たちはその優しさを感ずることができないのです。 それどころか、その手が私たちの眠りを追い払っていると感ずるや否や、 これを今自分の見ている夢を中断する忌まわしい妨害のように思ってしまうのです。 そして、この死がどんなに私たちのためを思ってくれているか、 そのことに思いを馳せることはほとんどできないのです。
解説
フランクルは人生を「絶えず作り続けるもの」と見ています。人は日々の行動や選択によって自己を作り上げ、各瞬間の積み重ねがその人の人格や人生の意味を形作っていきます。しかし、生きている限りはその完成は決して得られません。生きることは常に変化や成長を伴うため、私たちの「人間像」や「人生の意味」は未完成であり、流動的なのです。
ところが、死を迎える瞬間、すべての変化が停止し、人生の「完成」が訪れます。この完成とは、その人が生きてきた軌跡や選択、苦難と向き合った姿勢、愛し合った人々との関係が、ある意味で永遠に保存されるようなものです。フランクルは、死によって人間は「完成される」と考えました。人生が終わると、これまでの行いや意義が「固定」され、その人の存在は世界において永続的な意味を持ちます。砂時計が下に砂を落としきったように、その人の物語は完成されるのです。
また、フランクルは「死」を魔物のようなものとして恐れるのではなく、むしろ「優しく目覚めさせる母親の手」に例えています。この比喩には、「死」を穏やかに受け入れるべきものとするフランクルの視点が込められています。死は、眠りからの目覚めであり、ある意味で解放です。生きているときには気づけなかった人生の意味や、自分の存在の全体像が、死を迎えることで初めて「完成」され、ひとつの確かなものとして存在します。
このように、フランクルの死生観では、死はただ人生を奪うものではなく、むしろそれを「完成」させるものだと捉えられています。人生においてその都度つかんできた意義や価値が、死によって最終的に確定され、その人の物語が閉じられるのです。このため、フランクルは死を否定的に捉えるのではなく、自然の一部として受け入れることを勧めており、恐れや嫌悪感ではなく、穏やかに迎えるものとして理解することができるのです。
フランクルの著書の文面と比喩的な解説は、NHK Eテレの“心の時代”
ヴィクトールフランク「それでも人生に意味がある」を引用と参考にしています。
フランクルの書籍の紹介と学習のすすめ方
ヴィクトール・E・フランクルのロゴセラピーについて深く学ぶためには、フランクル自身の著作やロゴセラピーに関する解説書が役立ちます。次に紹介する書籍を通じて、フランクルの思想とロゴセラピーの応用を深めていくことができます。
学習の進め方
最初にフランクルの原著である『夜と霧』や『意味への意志』を読んで、ロゴセラピーの基礎的な考え方を理解することをおすすめします。
その後、日本語の解説書や応用的な文献を読み、具体的なケーススタディや実践的な応用について学んでいきます。
英語の文献や論文を読んで、国際的な視点からロゴセラピーがどのように応用されているかも学んでみると、より深い理解が得れます。
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: みすず書房
- 内容: ナチスの強制収容所での体験を通じて、フランクルがどのように「生きる意味」を見出したかを描いた名著です。ロゴセラピーの背景を理解する上で非常に重要な書籍です。
『夜と霧』(原題:Man’s Search for Meaning;ある心理学者の強制収容所体験記録)は、ヴィクトール・フランクルがナチスの強制収容所での過酷な体験をもとに執筆した著書で、彼のロゴセラピーの基盤となる「人生の意味」を探求する内容です。
フランクルは、アウシュビッツや他の強制収容所での生活を実体験に基づき描写しています。収容所での非人間的な状況や極限の苦痛の中で、人々がどのようにして生きる希望を見つけ、精神的に耐えることができたかが詳細に語られています。
フランクルは、どんな状況でも人間には「生きる意味」を見つける力があると主張しています。彼が観察したのは、極限の苦痛にあっても「なぜ生きるのか」という問いに答えられる人は、精神的に強く耐え抜くことができたということです。この「意味への意志」(will to meaning)は、フランクルのロゴセラピーの中心的な概念であり、物理的な苦痛や絶望を超える力をもつとされています。
フランクルは、人間はどんなに困難な状況にあっても、自分の態度や反応を選ぶ自由があると考えました。収容所での極限の状況でも、どのようにその状況に向き合うかを自分で決めることができるという信念を持ち、これが「精神的自由」の基礎となります。たとえ外的な自由が奪われても、内的な自由は守れるという考えです。
フランクルは、「生きる意味」は人それぞれ異なり、その人自身の状況や価値観に応じて見つけるものであるとしています。彼のロゴセラピーは、この意味を見出す支援をすることに焦点を当てており、フランクル自身も収容所内での苦悩を通じて、自分自身の意味を再確認しています。
『夜と霧』は、フランクル自身の経験を通して、どんなに苦しい状況でも人間が「意味」を見出すことの重要性を説いており、現在でも多くの人に勇気と希望を与える作品として広く読まれています。
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: 春秋社
- 内容: 「夜と霧」に続く書籍で、ロゴセラピーの理論がより具体的に解説されています。人生の苦難の中で「意味」を見出す方法が詳述されています。
それでも人生にイエスという』(原題:Yes to Life in Spite of Everything)は、フランクルがホロコースト後に講演した内容をまとめたもので、どんなに困難な状況でも人生に「イエス」と肯定的に向き合う姿勢を訴えています。
フランクルは、人生が困難であったり、絶望的な状況に直面していても、その中に何かしらの価値や意味を見つけることができると主張しています。「それでも」人生に「イエス」と言える態度が、どんな状況でも生き抜く力になると説いています。フランクル自身の体験が、この考え方の土台となっています。
フランクルは、人生の意味は普遍的ではなく、個人がその都度発見するものだとしています。彼のロゴセラピーの理念の一部として、どんなに過酷な状況でもその瞬間にふさわしい「意味」を見つけることができると述べています。つまり、人生の意味は変化し続けるものであり、それを自らの選択や態度で見つけていくことが求められます。
本書では、特にフランクルの「精神的自由」や「自己超越」の概念が繰り返し述べられています。たとえ身体的に抑圧されても、精神的には自由であり続け、他者や目的のために自分を超えていく力が人間には備わっているとしています。
フランクルは、戦後の時代や、現代の物質主義的な価値観が広がる中でも、人生の意味を見失わずに、いかにして生きるべきかを問いかけています。彼は、人生が無意味だと感じる現代人に向けて、どんな状況でも生きる価値や意味があることを強調しています。
『それでも人生にイエスという』は、フランクルがロゴセラピーの理念を現代に向けて再確認し、絶望的な状況の中でも人生を肯定的に受け入れる重要性を説いた作品です。
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: 春秋社
- 内容: フランクルがロゴセラピーの理論を深く探求し、苦悩や死に向き合う中で人間がいかにして意味を見出し、精神的に成長するかが中心テーマとなっています。
『苦悩する人間』(原題:The Doctor and the Soul)は、フランクルがロゴセラピーの基本的な考え方を体系的にまとめた著書です。特に、人間の精神的な苦悩に焦点を当て、その苦悩の意味を探求することの重要性が強調されています。
フランクルは、肉体的な健康や心理的な状態だけでなく、精神的次元が人間の本質にとって極めて重要であると考えました。彼は、この精神的次元が人間の存在の核心であり、そこには「意味への意志」が根付いているとしています。ロゴセラピーでは、この次元を治療の中心に据え、クライエントが自分の苦悩の中から意味を見つけることを助けます。
フランクルは、苦悩そのものが人間にとって意味を持ち得ると主張しています。彼は、苦悩や死に直面することが人生の意味を深く考えるきっかけとなり、これが個人の成長や自己超越につながると考えます。「人生は苦悩の中でこそ真に意味を持つ」という実存的な見解が強調されています。
フランクルは、精神疾患の治療において、単に症状の除去や対処療法にとどまらず、患者が自分の人生の意味を見つけることが重要であると説きます。彼は、ロゴセラピーを通じて患者の精神的な成長や生きがいを引き出すことが、治療の本質であると述べています。
フランクルは、死を避けることのできない現実として認識し、その中で人間がどう生きるべきかを問うています。死を恐れるのではなく、それを受け入れた上で、自分の人生にどのように意味を持たせるかが重要であると強調しています。
- 『夜と霧』旧版・新版
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: みすず書房
- 内容: ナチスの強制収容所での体験を通じて、フランクルがどのように「生きる意味」を見出したかを描いた名著です。ロゴセラピーの背景を理解する上で非常に重要な書籍です。
- 強制収容所で体験したことを述べたいと思う。ただ、何も私は身の毛がよだつ話をしたいわけではない。そこにいた囚人たちが収容所の中で、どのような苦労を抱えて過ごしてきたのか、そういった心の問題を取り扱いたいのだ。
11910よ、忘れもしないこれは私の囚人番号だ。強制収容所において、私は心理学者でもまして医者でもなかった。ただ番号がふられただけの一人の囚人でしかなかったのだ。
ではまず、私がアウシュヴィッツに送られた時の様子から話をしていこう。
1つの貨物車両に80人ほどの人間達とその荷物が息苦しいほど隙間なく入れられ、私たちはある場所へと輸送させられた。
かろうじて窓の一番上から薄暗い空を眺めることができたのを覚えている。いったい我々はどこに連れていかれるのか、軍事工場で強制労働でもさせられるのか、狭い空間の中で言葉を交わし合った。
暫くすると、列車はひらけた平地に止まろうとしていた。どこだ、ここはいったいどこなんだ、そんな言い知れぬ空気が列車内を覆うような群衆の中から突然一つの叫び声が上がった。
駅の看板がある。アウシュヴィッツだ!アウシュヴィッツだ!この瞬間、誰もかれも心臓が止まりそうになる」。アウシュヴィッツは1つの概念だったのか、よくわからないけれども、しかしそれだけに恐怖しかなかった。
停車場につくとエレガントな紳士のような将校が現れた。そして、我々を指さしながら何やら指示を出し始めたのだ。私たちの列の男たちが一人また一人と親衛隊将校の前に進み出る。男は心ここにあらずという態度で立っていて、人差し指をごく控えめにほんの僅か、こちらから見て、ある時は左に、またある時には右に、しかしたいていは左に動かした。夜になって、私たちは人差し指の動きの意味を知った。私はこの時知るよしもなかったあの男の指の動き一つひとつが命の選別であったこと。
この時輸送された約90%の人が数時間も経たないうちにガス室に送られ命を奪われた。
一方、私を含む残りの人間たちは風呂場に連れていかれ、全身の毛をそられた。そして文字通りの裸の存在となったのだ。 - 私たちは自分が身ぐるみ剝がされたことを思い知った。今やこの裸の身体以外、まさに何一つもっていない。これまでの人生との目の見える絆など、まだ残っているだろうか。必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることから、何を期待するかではなく、むしろひたすら、生きることが私たちから何を期待しているかが問題なのだ。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
- アウシュヴィッツでの第一夜、私は三段ベットで寝た。一段の、むき出しの板敷きに九人が横になった。靴は持ち込み禁止だったが、禁を犯してでも枕にする者たちもいた。糞にまみれていることなどお構いなしだ。こうして、正常な感情の動きはどんどん息の根を止められていった。
- 僕は君たちに一つのことを忠告する。それはできれば毎日髭を剃れということだ。剃るものは何だっていい、僕はその辺に落ちているガラス片で行っている。後病気になるな、病気であってもそれを悟られるな。命を奪われたくなければ、とにかく労働が可能であるという印象を相手に与えろ。
こいつは働けないと判断されたら、もう僕たちはおしまいなんだ。いいか、もう一度言うぞ、髭を剃れ、そしていつまでもまっすぐ立って歩け。 - 私は一体何なんだ。人の肉でしかない大群衆のケチな一切れだ。鉄条網の中でいくつかの掘立小屋に押し込まれている群衆、毎日きちんと決まった割合で命を失い、腐っていく群衆のケチな一切れだ。生きていることに、もう何にも期待が持てない。こんな言葉に対して、いったいどう答えたらいいのだろう。
- 日々のパンのための、あるいはただ単に生き延びるための戦いは戦慄を極めた。とにかく我が身可愛さから、人は容赦なく戦った。誰かが抹殺を免れれば、誰かが身代わりになることははっきりしていた。私たちは、ためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。
- 人間が生きることには、常に、どんな状態でも意味がある。それは、生き延びる見込みなど皆無の時に私たちを絶望から踏みとどませる、唯一の考えだったのだ。
- とっくに感情が消滅していたはずの私が、それでもなお苦痛だったのは、何らかの叱責や、覚悟していたこん棒ではなかった。監視兵は、私というやつを、わざわざ罵倒する値打ちなどないと踏んだ。そして、戯れのように地面から石ころを拾い上げ、私に投げた。私は感じずにいられなかった。こうやって動物の気を引くことがあるな、と。こうやって、家畜に働く義務を思い起こさせるのだ。罰を与えるほどの気持ちのつながりなど、これぽっちも持たない家畜に、と。
- 私はトリックを弄した。突然、私は皓々と明かりがともり、暖房のきいた豪華な大ホールの演台に立っていた。そして、私は語るのだ。講演のテーマは、なんと、強制収容所の心理学。このトリックのおかげで、それらをまるでもう過去のもののように見なすことができ、私を私の苦しみともども、私自身が行う興味深い心理学研究の対象とすることができたのだ。
- 私は妻と語った。そして彼女が答えるのを聞き、笑うのを見た。たとえ、その場にいなくても彼女の眼差しは今まさに登ろうとしている太陽よりも私を照らしてくれた。その時、私は気づいたのだ。
愛こそが人間にとって最高のものだということを。たとえこのように何一つ残っていなくても人間は愛する人の面影を心に宿すだけで救われるのだ。
この時、私は自分の妻が生きているかどうかも知らなかったし、知る必要もなかった。私は深い愛情をもって彼女の面影を見つめ続けた。彼女はまだ生きているのか、それともこの世にいないのか。そんな事実はもはや問題ではなかった。たとえ、愛する妻が亡くなっていても、それでも私は彼女の面影を見つめ続けていただろう。
何時間も凍った地面を掘り続けて監視兵に怒鳴られても、私は彼女と言葉を交わした。そして、そのために妻の存在を強く感じた。
彼女を抱きしめることができるのではないか、手を伸ばせば触れることができるのではないか。そんな感情が強く私を襲うたびに思うのだった。彼女はきっとそこにいる。そこにいるのだ。 - たとえば、こんなことがあった。現場監督がある日、小さなパンをそっとくれたのだ。私はそれが、監督が自分の朝食からとりおいていたものだということを知っていた。あの時、私に涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンというものではなかった。それは、あの時この男が私に示した人間らしさだった。人間とは何者か。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし、同時にガス室に入っても毅然として祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。
- 1944年のクリスマス、そして1945年の新年の間にいまだかつてない大量の死亡者が出た。
強制収容所にいた医者によると、それは過酷な労働条件や悪化した栄養状態、あるいは伝染病などで説明がつくものではなかった。むしろ、その原因は囚人たちがクリスマスや新年にはきっと状況も良くなって家に帰れるだろうと素朴な希望に身を寄せたからなのだ。
もうすぐ、クリスマスだというのに収容所から流れてくるニュースと言えば、いつも暗い話ばかりで明るい記事など一切なかった。
そうやって、囚人たちはどんどん失望し、落胆し、そして抵抗力を落としていったのだ。凄まじい収容所生活において自分の内側にある抵抗力を落とすことは、そのまま命を落とすことにつながる。
だから、自分たちの抵抗力が落ちないようにどうにか気持ちだけを維持しなければならない。そのためには、自分は何としてでも生き伸びなければならないという人生の目的意識が必要だったのだ。 - 生きる目的を見いだせず、生きる内実を失い、自分が存在することの意味をなくすとともに、頑張り抜く意味も失った人は痛ましい限りだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっという間に崩れていった。
- ここで必要なのは、人生の意味に対する問いかけ全体を方向展開させることです。私たちが自分で学び、さらに絶望している人達にも教えなければならないのは、私たちが人生から何を期待できるのか、と言うのが重要なのでは決してなく、むしろ、人生が私たちから何を期待しているかが重要だということなのです。つまり、人生の意味を安易に問うのはもうやめて、自分自身が人生から常に問われているのだと自覚しよう、ということです。
- 『フランクル回想録』
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: 春秋社
- ある晩、眠りに入る直前にハッと飛び起きたことがある。自分もいつかは死なねばならないと気付いたからである。しかし、私を苦しめたのは死の恐怖ではなく、むしろただ一つ、人生の無常さが人生の意味を無に帰してしまうのではないか、という問いであった。
- 十五か十六のこと、私はそこで他でもない、まさに人生の意味について講演する機会を得たのである。すでにその当時、私は二つの明確な基本的考えを抱いていた。まず第一に、そもそもわれわれが人生の意味を問うべきなのではなく、われわれ自身が問われているものであり、人生がわれわれに出した問いに答えられるようになるためには、われわれは自らの存在そのものについて責任を担わなければならないということである。
- 必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。私たちが生きることから何かを期待するのではなく、むしろひたすら、生きることが、私たちから何を期待しているかが問題なのだ。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。
- パウル、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けることには、何か意味があるはずだよね。何かが僕から求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。
- 私は家路を急いだ。プラター通りには、歌い、歓声を上げ、叫び声をあげるデモ参加者が溢れていた。家では母が泣いていた。たった今、首相がラジオ放送で国民に別れを告げたばかりで、今は何とも言えないほど悲しいメロディがかかっていた。
- ロートシルト病院の神経科主任のポストが回ってきた。私はそれを引き受けることにした。それは少なくとも、私と私の年老いた両親を強制収容所送りからある程度守ることができるポストだったからである。一日に十人もの自殺未遂者が運び込まれた時期もあった。それほど、ウィーンに残ったユダヤ人の精神状況は悲惨だったのである。
- 私の助手であったジョイラッパポルト博士は、私が企てた人々を救おうとしたことに抗議した。それから彼女自身にも強制収容所に抑留するという命令の下る日が来た。彼女は自殺を企てて私の病棟に運び込まれた。そして、私に命を救われ、その後強制収容所に抑留されていった。
- 精神科医もしくは少なくとも精神療法家は、事実としての弱みを超えて、その弱みを自由意志によって克服する可能性を直感的に知ることができるのであり、状況をただ嘆き悲しむことを超えて、その状況から意味を闘い取り、かくして一見無意味に思われる苦悩を真の人間的な業績に変える可能性を見いだすことができるのである。そのような意味可能性をまったく持たないような状況は存在するはずがない、というのが私の基本的信念である。まさに、この信念の本質的な部分が、ロゴセラピーによって主題化され、体系化されているのである。
- せっかくの一緒の昼食はだいなしだった。ところが彼女は私を待っていて、帰ってきた私に掛けた最初の言葉は、ああ、やっと帰ってきたの。ごはん待ってたのよではなく、手術はどうだった。患者さんの具合はどうなの、だった。この瞬間、私はこの娘を妻にしようと決めた。
- 私は友人のパウル・ポラックを訪ね、私の両親、兄、そしてティリーの死を報告した。今でも覚えている、私は突然泣き出して、彼に言った。パウル、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。何かが僕に期待している、何かが僕から求めている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。
- 『人生があなたを待っている』夜と霧を越えて
- 著者:ハドン・クリングバーグ・ジュニア
- 出版社:みすず書房
- 1巻目:フランクルがフロイトやアドラーと出会い、精神科医、ロゴセラピー、そして壮絶な強制収容所の体験と戦後の医師の復職まで描いていています。
2巻目:第一次大戦終了後に妻エリーと出会い、育ちの違いを超えて愛し合い、手を携えて生きた戦後を描いています。
- 『それでも人生にイエスと言う』
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: 春秋社
- 内容: 「夜と霧」に続く書籍で、ロゴセラピーの理論がより具体的に解説されています。人生の苦難の中で「意味」を見出す方法が詳述されています。
- 『意味への意志―ロゴセラピーの原理』
- 著者: ヴィクトール・E・フランクル
- 出版社: 春秋社
- 内容: ロゴセラピーの理論的な基礎とその応用について学べるフランクルの代表的な理論書です。ロゴセラピーの核心を理解するために必読の一冊です。
- 『フランクルとロゴセラピー――「生きる意味」を問いかける』
- 著者: 伊東俊之
- 出版社: PHP研究所
- 内容: フランクルのロゴセラピーの概要をわかりやすく解説しています。フランクルの思想を学び始める際におすすめです。
- 『ロゴセラピーとは何か―生きる意味を探る治療法』
- 著者: 伊東俊之
- 出版社: PHP研究所
- 内容: フランクルのロゴセラピーを体系的に学ぶための日本語での解説書。具体的なケースや実践方法が書かれており、ロゴセラピーの応用を学ぶのに適しています。
- “Man’s Search for Meaning”
- Author: Viktor E. Frankl
- Publisher: Beacon Press
- Content: This is the original English version of “夜と霧”, one of Frankl’s most famous works. It includes both his personal experience in concentration camps and an introduction to logotherapy. A must-read for understanding his philosophy.
- “The Will to Meaning: Foundations and Applications of Logotherapy”
- Author: Viktor E. Frankl
- Publisher: Plume
- Content: A more detailed exploration of logotherapy, focusing on its foundational principles and practical applications. It’s essential for those interested in the psychological and philosophical aspects of Frankl’s work.
- “The Doctor and the Soul: From Psychotherapy to Logotherapy”
- Author: Viktor E. Frankl
- Publisher: Vintage Books
- Content: This book offers a more medical and psychological view of logotherapy, aimed at professionals but still accessible to the general reader. It bridges the gap between psychotherapy and existential analysis.
- “Viktor Frankl’s Logotherapy: Method of Choice in Ecumenical Pastoral Psychology”
- Author: Ann V. Graber
- Publisher: Purpose Research
- Content: This book is a thorough exploration of logotherapy, with a focus on its integration into pastoral counseling. It provides practical insights for those interested in applying Frankl’s ideas in a spiritual or pastoral context.
- “Logotherapy and Existential Analysis: Proceedings of the Viktor Frankl Institute Vienna”
- Editor: Alexander Batthyány
- Publisher: Springer
- Content: This is a scholarly collection of papers and research related to logotherapy and existential analysis, compiling insights from modern-day practitioners and researchers continuing Frankl’s legacy.
- “Meaning in Suffering: Comfort in Crisis Through Logotherapy”
- Author: Elisabeth S. Lukas
- Publisher: Dauphin Publications
- Content: A student of Frankl, Elisabeth Lukas presents a compassionate application of logotherapy, focusing on finding meaning in suffering. This book offers practical strategies for those in counseling roles.